言葉だけでいいから、僕のこと、信じてくれないか。
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 アメリカのFrank Stocktonという児童文学作家が書いた短編。所謂、リドル・ストーリー(読者に結末を任せる物語)と呼ばれるものだ。

 とある国で、罪人を裁く時に支配者の裁定や法律に拠らず、『女か虎か』という方法が採られていた。 罪を犯して裁かれる者は、観客で満員の闘技場に引き出される。 観客席と闘技場の隔壁の正面には扉が二つ。闘技場に連れ出された罪人は、二つの扉のどちらかを開けなければならない。 一つの扉の向こうには飢えた虎、もう一方の扉の向こうには一人の美女が待っている。 審判は、罪人の選択という運命に委ねられる。 虎の扉を選べば、言うまでない結果がまっており、美女のいる扉を選べば、彼はその美女を得て、無実の裁定を受けることになる。 ただし罪人は必ずその美女と結婚しなければならない。 ある時、血筋は良いが身分の低い若者がこの国の王女と恋に落ちた。 二人の恋はやがて王女の父である国王の知るところとなり、若者は激怒した国王に捕らえられ、裁きの場に引き出された。 父王と共にその場に臨席する王女は、どちらの扉が虎のいる扉で、 もう一方の扉の向こうにいる女が、自分の恋人である若者に恋している美女だということも知っていた。 若者が虎のいる扉を選べば、彼は飢えた虎に噛み殺されてしまうだろう。 しかし、若者が美女のいる扉を選べば、王女は彼が自分以外の女と結ばれる様を見なければならない。 命永らえた若者は、彼を恋い慕う美女と結婚し、決して結ばれることのない身分違いの恋を忘れてしまうかもしれない。 その可能性を考えると、王女は嫉妬で気が狂いそうになる。 闘技場に引き出された若者が、臨席している王女に視線を向けると、王女は彼にだけわかる仕草で、選ぶべき扉を指し示すのだった・・・

 虎か女か。(THE LADY,OR THE TIGER?)

 彼女はどちらを選んだのだろうか。答えはない。どちらもありえそうな話ではある。いずれの扉を選んだにせよ、結末も様々な可能性がありそうだ。それがこの物語のリドル・ストーリーたる所以である。どうやら、僕らはこの手の「答えのない」物語にひかれる傾向があるらしい。現に、この続きを巡ってさ多くの物語がネット上にひしめき合っている。これは、僕らが人生で出会う某かの「究極の選択」に似ているのかもしれない。どちらかを選ばなければいけない。でも、どちらも選ぶことができない・・・

 ただし、気をつけないといけない。選ばないことも選んだことになってしまうのが現実である。僕らはやがて選択を迫られる。その時、僕らは後悔することなく、誠実に生きていくことができるだろうか。(これは、少し感傷的な脱線です。誠実さというのも微妙な問題だから)さて、どちらの扉を選ぼうか。

 ちなみにこの国の王はsemi-barbaric king(半分野蛮な王)であるという。だとすれば、その血筋を引く娘もsemi-barbaricである可能は高そうだ。それから、「血筋が良くて身分が低い若者」というのは、この手の物語の常套句であることにも注意したい。(その点では、シンデレラもその手の物語に分類することができる。そう考えると、シンデレラ・ストーリーというのは、現代の感覚と大分違うことが明らかになってくるのだが、それはまた別の話。)

 いずれにせよ、僕らの想像力は―欲望と同様に―尽きることがない。
最後に・・・避けて通ろうと思ったが、筆者が王女なら美女のいる扉を目配せする。だって、世界の多くの男女は虎を選ぶに違いないから。

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>彼女はどちらを選んだのだろうか。
私、この話って【若者の選択】を問いかける物語だとばっかり思ってました
自ら捧げる愛と、相手から与えられる信頼。二つの異なる要因の、どちらを選択するのか?

『若者は王女を信じたか、信じられなかったか。王女への愛と、自らの命、どちらを選ぼうとしたか』
『信じるが故に虎を選んだか、信じぬが故に虎を選ぶ羽目になったか』
『信じるが故に女を選んだか、信じぬが故に女を選ぶ羽目になったか』

こんな感じかな、って
実際のテクスト読むと、王女の葛藤が描かれ、そこで物語が終わります。問いかけはは、王女の決定に重心が置かれているようです。

The question of her decision is one not to be lightly considered, and it is not for me to presume to set myself up as the one person able to answer it. And so I leave it with all of you: Which came out of the opened door,--the lady, or the tiger?


ただし、最終的に「どちらの扉を開けたのか」を考える際には、シュエパイ さんの言うように「若者の選択」も重要で在ることは間違いありませんね。

ちなみに、かつて邦訳が早川から出ていたようなのですが、現在は絶版。いずれ精確な日本語訳をこのブログに載せることができたらいいかなと思っていますが、時間と労力を使うので・・・検討中です。
「半分野蛮な」という形容詞がありましたが、虎を「獣性」「暴力」の象徴とみなし、その対称的な位置にある女性を「人間性」「文明性」の象徴であると想定します。

すると、このように対立する二つの要素が並立している状態が実は、この国自体と、王と王女とが、半分は野蛮で半分は文明的という、アンビヴァレントな、分裂症気味の状態にあることを示していると思います。

このような自己矛盾をきたしている環境下なので、王女からは、「若者を好きなのに、見殺しにする」とか「若者と結婚したいのに、他の女と娶らす」というような、矛盾する結果しか出てきません。

また若者も、「血筋が良く」ても「身分が低い」という、自家撞着を起こしている存在なのも気になります。

私にとって、こういう話は、「どちらの選択肢を選ぶか」という点もさることながら、「選択をできなくさせている原因は何なのか」という分析がおもしろいです。
鋭いコメント、ありがとうございました。構造を見て分析すると、たいせいさんが言うように、このテクストは何かにつけてアンヴィヴァレントな表象と言語で満ちています。ディコンストラクションにはうってつけのテクストかもしれません。決定不可能性と分裂症というモチーフだと、僕は真っ先に『ハムレット』を思い出します。このテクストは果たしてそれほどの分析に耐えられるかどうか、やってみないとわかりませんが、これ以上は僕の手に余るので(始めてもいないわけですが)・・・逃げます(笑)

ただ、リドル・ストーリーというのは、やはり読者参加型というか、読み手に判断を委ねるところが醍醐味だと思うんです。だから、テクスト内部だけで解決しようとすると罠にはまってしまうのではないか。作者を出して来るのは気がひけますが、Stocktonがこの物語を書いたのは、パーティー会場での受けがよかったのでそれを小説にしてみよう、という発想だったらしいんですね。客受けがよかった、っていうのはつまり、「私ならこうする」みたいなことをみんなが口々に言うわけで、まさにブログのトラックバック状態ですね。ただ、僕らは今それを違ったレベルからメタ的に話しているわけですが。テクストから外側に物語の網の目を張り巡らしていく感じ。そう考えると、リドル・ストーリーって思いのほか現代的なのかもしれません。

それはさておき、タイセイさんのアイディアを踏まえて「自己瓦解するリドル・ストーリー」(勝手にタイトルを付けてしまいました)についてはもう少し推敲してみたいと思います。

それから、「血筋が良く」ても「身分が低い」といった問題はいずれ別な機会にとりあげたいと思います。おとぎ話でもかなりベタなモチーフなので。

興味深く読ませてもらいました。
なるほど、王女の選択を若者が信じない場合、というのも考えられるわけですね。私は王女側の、矛盾する結果のことしか考えてませんでした。
「獣性」「人間性」の分析も面白かったです。
非常に良いブログだと思い、リンクさせていただきましたので、一応ご報告しておきます。
「血筋が良く」て「身分が低い」とは、一見矛盾しているようですが…。次回の記事を楽しみにしていますね。





  
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