言葉だけでいいから、僕のこと、信じてくれないか。
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 村上春樹と言えば、『ノルウェイの森』や『ねじ巻き鳥クロニクル』、『海辺のカフカ」』といった長編小説のイメージが強いが、『辺境・近境』、『雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行』といった、旅行記もいくつか書いていることはあまり知られていないように思う。今回紹介する「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」もその手の作品の一つだ。正直に言うと、お世辞にも魅力的な文学作品とは言い難い。というのも、彼の旅行記は巷に溢れる演出に満ちた旅行記と比べると、あまりにも物語性に欠けるし、旅情に纏わる高揚感というものが稀薄である。故意に狙っている節もあるが、どちらかと言えば、苦手分野なのかもしれない。異国情緒溢れる旅の魅力や冒険譚を心から求める人は沢木耕太郎の「深夜特急」あたりを読んでいただいたほうがよいかと思う。それでもこの作品を取り上げるのは、物語を度返しにして人間の魅力を掬い上げる、そのエクリチュール、一重に文章の巧さでもっていく瞬間に、僕らが‘酔いしれる’からにほかならない。
 本書は、主に二つの旅行記からなる。一つはスコットランドのアイラ島を巡る旅であり、もう一つはアイルランドを巡る旅。目的は勿論、ウィスキーを飲むことにある。さながらヘミングウェイのように、飲んで飲んで飲みまくる。(それをオシャレに見せるところが心憎い村上節で、7つのシングルモルト・ウィスキーをテイスティングするその至福に僕らの入り込むスキはない。)当然、本書はウィスキーに纏わる蘊蓄と観光案内的語りが大半を占めるのだが、その雰囲気を下支えするのは、そこに登場する人間の「ことば」だ。アイラ島では二人のウィスキー職人が登場する。一人は昔ながらの製法でウイスキーを作り続けている、ボウモア蒸留場のマネジャー、ジム、もう一人は近代的な生産システムを取り入れたラフロイグ蒸留所のマネージャー、イアンである。
 ジムはウィスキー造りの魅力を次のように語る。

「ウィスキー造りを僕が好きなのは、それが本質的にロマンチックな仕事だからだ」とジムは言う。「僕が今こうして作っているウィスキーが世の中に出て行くとき、あるいは僕はもうこの世にいないかもしれない。しかし、それは僕が造ったものなんだ。そういうのって素敵なことだと思わないか?」

 ジムのことばは芸術家のものと何一つ変わらない。そこには永遠性を希求する精神がある。一方、イアンは次のように語る。

・・・頭でいろいろ考えちゃいけない。能書きもいらない。値段も関係ない。多くの人は年数の多いシングル・モルトはうまいと思いがちだ。でもそんなことはない。年月が得るものもあり、年月が失うものもある。エヴァレーション(蒸発)が加えるものもあり、引くもものもある。それはただ個性にすぎない。

 イアンのことばには、物作りの本質を突く哲学がある。二人の職人はそれぞれ異なる製造法によって、全く違う味のウィスキーを造っているにも関わらず、間違いなく一本筋の通ったもの持ち合わせているのだろう。
 こうして僕らは、まんまと飲んだこともないウィスキーの味について一つの真理を得たような気になる。ウィスキーに必要なのは、美味しい水、上質の大麦、ピート、そして、人間であると。
 一方、アイルランドの旅では、職人の姿は殆ど描かれることがない。この章のタイトルは「タラモア・デューはロスクレアのパブで、その老人によってどのように飲まれていたか?」であり、飲む側の人間に焦点があてられている。ここで、村上は執拗に老人がウィスキー飲む姿を描く。残念ながらその魅力はここで紹介しきれるものではない。おそらく、決して誰しもがわかる光景ではないだろう。だが、村上はこの老人がパブの椅子に腰掛け、タラモア・デューを飲みながら「形而上学的な、あるいは反プラクティカルな」思考を続けるその佇まいに魅せられている。その奇妙な光景を形容する言葉が無く、戸惑っているような感じさえある。僕らはいつもそういった感覚や認識を、何にも置き換えることができずに、何気なく素通りしていく。ことばはそれを捉えることができるだろうか?
前書き(「前書きのようなもの」と付されている)で、村上は次のように言う。
 
 もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけで済んだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし、残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも、例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは―少なくても僕はということだけれど―いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。

 シニフィアンの海で溺れずに岸まで上がってこようとする刹那、僕らは唐突に足を掬われてしまいそうになる。僕らは水面下で藻掻き続け、「その瞬間」を夢見るのかもしれない。テクストの快楽。それは危険な「賭け」だ。シェイクスピアから現代作家に至るまでの芸術家のメンタリティが、ここにはある。

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この本、ここで紹介があってから本屋さんで立ち読みしました(作者及び本屋さん、ごめんなさい)。

ウィスキーのたしなみがない僕には、シングルモルトって、すごくうまそうだな、という感想です。実はたまたま偶然、キングズリー・エイミスの『エブリデイ・ドリンキング』という酒の本を読んでいて、これまたウィスキーが絶賛されていたところだったので、なおさらです。

村上春樹の本は現代日本で本当に数少ない、読む価値のある作家だと思います。ただし、僕がもし彼の本、とくに小説に違和感を感じる点を挙げるとしたら、「ちょっと不思議な比喩表現」がそのひとつです。もちろんその比喩の言わんとすることはわかるのですが、時々(しばしば)ついていけなくなるので。

今回の「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」という表現も比喩的ですが、それほど違和感ありませんでした。でも、こういうふうに独創的なたとえを使うからこそ、ことばがウィスキーではなくなっちゃうんじゃないでしょうかね。
コメントありがとうございます。僕もウイスキーの嗜みはありませんが、この作品の職人根性みたいなものに魅かれたので、紹介してみました。

村上春樹の比喩表現は確かにクセがありますね。「雨に濡れた三本足の子犬のように孤独だった」とか・・・僕は長らくこの意味が上手く飲み込めなかった。要は、「孤独」を「犬」に見立てているわけですが、そこに「惨めさ」や「喪失感(欠如)」が混在しているために、たった一文の意味作用が不可解に思えてくるのです。挙句、それが複雑なコンテクストの中にポンと投げ込まれるわけですから、ついていけなくなるのは当然という気がします。(この場合、視覚に訴える要素が強いので、まだマシ?なほうかもしれません。)

不可解なメタファーを用いた結果、「ことばがウイスキーではなくなっちゃう」んじゃないか?・・・そうかもしれませんね。その実、僕にはよくわかりません。果たして、(そもそも)ことばは真実を言い当てることができるのか、現実を模倣しうるのか、できたとして、その範疇は如何ほどのものなのか、残念ながら、考えがまとまらないのです。はっきりしているのは、村上春樹の比喩が曲者だということくらい(笑)

紹介した手前、一応村上春樹を庇って?おくと、「僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない」というのが村上の立場で、にも関わらず、「いつもそのような瞬間を夢見て」いるのだというのですから、かなり両義的な立場にある気はするんですね。ここが、たぶんほかのポストモダンの作家にはない個性かもしれません。

これを読んで、シングル・モルトを飲みたいな、と思った時点で、僕らは騙されているような気もします。

ところで、キングズリー・エイミスも酒の本を書いているのですね。お酒と英文学の関係は気になります。僕はお酒には疎いので(本当ですよ)、これから勉強する必要がありそうです。





  
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