言葉だけでいいから、僕のこと、信じてくれないか。
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「・・・ある評者は、この一編は人間性の暗黒面を寫したものだと云つた。鰐は蛸を愛してゐるくせにどうしても誘惑に勝てず、自己弁護を繰り返しながら、毎夜ひそかにその足を一本づつ食つて、遂には頭まで食ひつくしてしまふ。食ひ終わればにがい後悔の涙を流す。事ごとに自問自答し、無い性癖と自己弁護癖のあるその性格は近代のインテリに酷似していると評した。これに反してトンカチざめは、悪い事をするのが、ただもう嬉しくてたまらぬ。船を沈めて人が溺れるのを見天真爛漫に喜笑ひする。彼には訳にも立たぬ反省や自己弁護が微塵もない。即ち「絶対の悪」だから愉快だ。また単にゆでだこのやうに赤くなったに過ぎない鰐を、生神様に祭りあげる黒んぼを描いたのは、事大主義を諷刺するためだとも評した。」

「はしがき」でこのように紹介する山本が、この手の評を本気で信じていたとは到底思えない。ナンセンスに耽溺することを読者に推奨する山本は「読者の一人一人が己の甲羅に似せたさまざまな解釈を与え、しかもそれに耐え得るところにこの作品の無限の妙味と含蓄」があるのだと紹介するが、これほどシュールな寓話に「さまざまな解釈」を施すこと自体、至難の業である。

『年を歴た鰐の話』は、ナイル川に住んでいた一匹の年老いた鰐の物語。リウマチになり動けなくなった老鰐は、空腹に耐えられず曾孫の鰐を食べたことで親族中から総スカンを食らう。曾孫の母鰐に「ひとでなし!」と叱責されるものの、老鰐は全く反省の素振りを見せない。居場所を失った老鰐は海へと旅立つ。海で一匹の蛸と出会った朗鰐は、彼女(話しぶりからするとメスであるらしい)にエサをとってもらうばかりか、彼女と相思相愛になるが、そこはやはり鰐の性、毎日一本ずつ蛸の足を食べ、最後にはまるごと喰らってしまうのだった。海ですっかり英気を取り戻し、再び故郷の上流へと戻ったものの、仲間たちは皆一様によそよそしい。悲嘆に暮れた老鰐はさらに上流を目指す。上流の岸辺で力尽きた老鰐は野蛮人たちに捕獲されてしまうが、どういうわけか手厚く待遇され、神のように奉られる。というのも、長いこと紅海にいた老鰐は身体が真っ赤に変色していたからだ。老鰐はそのことに気づかぬまま余生を過ごしたのだった・・・。

「彼は彼女を食べてしまつたことを後悔したが、彼女が、大そうおいしかつたことを思ひだして、唯一の慰めにした。」などと言われて素直に笑っていいのか困ってしまうが、笑っておくほかないカニバルな挿話である。ラストのオチが凡庸だとしても、神話の起源とはこんなものではないかと思わせてしまうのがジョヴォの手練。川を上るといえば、コンラッドの『闇の奥』を連想させるが、コンゴ川上流で現地人に神扱いされて発狂したクルツとは明らかに違って、老鰐は平和に最期を迎えるのが印象的だ。毒を吐き続けた後に回ってくるハッピー・エンドに輪をかけるのはジョボの絵で、哀愁漂う鰐の背中を描いている。

本書には他に『のこぎり鮫とトンカチざめ』、『なめくじ犬と天文学者』という短編二つが収められているが、どちらも『年を歴た鰐』に劣らぬシュールな寓話。『のこぎり鮫とトンカチざめ』は、ルノウ君の父親なる人物が、ルノウ君にせがまれ、その場のノリででっちあげた物語。(したがって、ルノウ君の「つっこみ」によってストーリーは容易く修正される。)極悪な鮫が船を沈めまくる様子が執拗に描かれるが、最期にはかつて殺した鯨の母親に復讐され、二匹は鯨の尾びれで「平べつたく」されるという惨めな死を遂げる。あっけない終焉。この寓話に一体如何なる救いがあるのか、と問う奇特な御仁もあるかもしれない。こんな話の一体何が面白いというのか?どうしても答えが欲しい方は、ルノウ君と父親の会話を改めて読み、多少の慰めにしていただければと思う。

「わかつたかい。」
「うん。」
「本當にわかつたかい。」
「ううん。本當はわからないけれど、それでも面白い。」
「わからないのだから、これ以上話しても無駄だな。」
「無駄ぢゃない。面白いんだから。」
「わからないくせに、どうして面白いんだらう。」
「どうしてだか知らない。でも、面白いつたら面白いんだから。」
「ぢゃ話そう」


笑いは説明すると野暮になるという好例かもしれない。

『なめくじ犬と天文学者』は、天文学者ラリュンヌと彼を取り巻く動物たちの物語。ラリュンヌは流星と地球が衝突することを危惧する天才天文学者だが、盲目であるためにチョコレートという名の愛犬に望遠鏡を覗かせて、星を観察している。さらに、星の位置を計算させるため”なめくぢ”という名の計算ができる犬、さらに計算ができるというカエルのピタゴラスに計算を依頼する。ちなみに、ピタゴラスはサーカスの首なし女に飼われているカエルである。ところが、実際、なめくぢは計算ができず、ピタゴラスも計算できないことが発覚。すると、チョコレートも望遠鏡を覗くことができないことを告白し、挙句、ラリュンヌまでが星のことはわからないと言い放ったものだから、話は滅茶苦茶になるかと思いきや、何故か一同は和解、クビなし女と天文学者は結婚、みんなで仲良く暮らすことになるのだった。めでたし、めでたし。

互いの無知を曝け出すことで愛が芽生える寓話だと解すれば合点はいくが、物語としては明らかに破綻している。だが、その破れ/敗れにこそ、実は魅力があるように思えてくる。計算ができないことも計算のうち?なのかもしれない。それにしても、首なし女との結婚はあまりに唐突過ぎはしないか?そんな勘ぐりも無粋に思えてくる不可思議な話。

いずれの物語もブラック・ユーモアに満ちた酔狂な寓話であるにも関わらず、背後に人間臭い温もりがあるから愉快である。憎みきれぬ魅力と言ったら軽薄か。いずれにせよ、どうやらジョボの毒には愛が満ちているらしいのだ。その毒は回りきってから効いてくるのである。

ジョボが今も尚無名であることを鑑みると、レオポール・ジョヴォとは架空の名で、山本夏彦氏がこれを書いたのではあるまいか、と吉行淳之介が訝ったのも無理からぬことだと思える。それほどに、山本の訳文には独自のリズムがあって心地良い。旧仮名遣いではあるが、山本訳を薦めたい所以である。絵も口舌尽くしがたいユーモアたっぷり、ナンセンスに耽溺したい方にお勧めの良書。

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