言葉だけでいいから、僕のこと、信じてくれないか。
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街で偶然、彼女と再会。
僕は彼女にドーナッツをあげた。

懐かしかったわ
と彼女が言った。

その晩 僕はドーナッツの夢を見た。
僕は体中にドーナッツを貼り付けて走らされていた。
いろんなものが追いかけてきた。
見知らぬ熊も追いかけてきた。
とにかく、必死だった。

僕らはいつの日か
ドーナッツの真ん中について、考えなければならなくなる。

でも、その前に
ヤー・ヤー・ヤーの歌を唄っておこう。




→ビデオ視聴

※1:The Flaming Lipsは、実験精神旺盛なバンド。カセットを複数の人間がデッキを使って再生するという通常のライヴ概念からまったくかけ離れた、エクスペリメンタル・ショウをやったことで有名。

※2:例によって、上記の文章はビデオ及び歌の内容とは殆ど関係ありません。

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僕らは鏡を覗き込み、自らの姿を直裁に理解する。僕が僕であること。あなたがあなたであること。だが、それは思い込みに過ぎない。僕/あなたは決して自分自身を識ることはできない。自らの身体の存在をうまく呑み込めず、僕らは、食べ、飲み、排泄し、性交し、時に煙草を吸い、時に身体に穴を開けてまで自らの身体を知ろうと躍起になる。その実、僕らは何も知らないのだ。

鏡に映る姿を誤認することによって、人間は自らを構成するのだとジャック・ラカンは考えた。弛まぬ誤認による想像・・・やがて、僕らは言語を獲得し、象徴界に身を委ねることになる。だが、鏡に立ち会った瞬間、僕らは再び出会うだろう。

A terrible fish./おぞましい魚。

「鏡」とは、まぎれもなく他者のことであるが、そこには常に「死」がつき纏っている。僕らは「死」に突き動かされながら、鏡を覗き込む。あなたには何が見えるだろうか?

Sylvia Plath(1932 – 1963)は二月のある日、オーブンに首を突っ込んで死んだ。彼女ほど「鏡」を直視し続けた詩人は稀だ。Sylviaは自らの詩の中に、自らの身体を書きこんだのである。


Mirror

I am silver and exact. I have no preconceptions.
What ever you see I swallow immediately
Just as it is, unmisted by love or dislike.
I am not cruel, only truthful---
The eye of a little god, four-cornered.
Most of the time I meditate on the opposite wall.
It is pink, with speckles. I have looked at it so long
I think it is a part of my heart. But it flickers.
Faces and darkness separate us over and over.

Now I am a lake. A woman bends over me,
Searching my reaches for what she really is.
Then she turns to those liars, the candles or the moon.
I see her back, and reflect it faithfully.
She rewards me with tears and an agitation of hands.
I am important to her. She comes and goes.
Each morning it is her face that replaces the darkness.
In me she has drowned a young girl, and in me an old woman
Rises toward her day after day, like a terrible fish.


わたしは銀色で正確。先入観はない。
あなたが見たものを 私は何でもすぐさま飲み込む
あるがままに、好き嫌いに曇らされることなく。
私は残酷ではない、真実であるだけで---
四面にある小さな神の目。
殆どいつも わたしは向かいがわの壁について黙想する。
その壁はピンクでしみがついている。ずいぶん長いこと見続けた
わたしの心臓の一部のようだと思う。でも それは揺らめく。
顔と暗闇はわたしたちを何度も何度も切り離す。

今わたしは湖。一人の女が私の上に身をかがめ、
本物の自分を求めてわたしの領域を探している。
それからあの嘘つきたちや、蝋燭や月に顔を向ける。
わたしは彼女の背を見て、それを忠実に映し出す。
彼女は涙と大仰な手振りで私に報いる。
わたしは彼女にとって重要なのだ。彼女は行ったり来たりする。
毎朝暗闇と交替するのは彼女の顔だ。
わたしのなかで、彼女は一人の若い女を溺死させた、そしてわたしの中で一人の老女が繰り返し自分の一日の方へと立ち上る、おぞましい魚のように。

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僕らは穴を見ると覗きたくなるものだ。片目を閉じ、安易に中を覗き込み、その闇の深さにそっと胸をなでおろす。だが、穴は見つめれば見つめるほど肥大化し、やがて手の施しようがないほど深淵な闇になる。どこまでも暗く、深い。最早誰も―本人でさえも、―その穴を埋めることはできない。その実、僕らは知っている。「見ること」は「見られること」だ。穴を覗きこんだ主体そのものが、逆に自らを対象化するという逆説。象徴的な鏡の魔力。

男は床に開いた小さな穴を覗きこむ。カメラ・アイは穴の底から具に男の顔を捉え、僕らはそれを共有する。日々穴は広がっていき、男は穴に落ちる。だが、彼は這い上がろうとはせず、闇の中に留まろうとする。何故か?シュヴァンクマイエル初期の短編さながらのイメージだが、この映像はそこまでのダークさは持ち合わせていない。よりドライで、諦念の情に満ちた人間は、暗闇の居心地の良さを知っている。それはシュール・レアリスムでは表現できない。むしろ、目に見える何か(=穴)なのだ。それでも、人間は「闇」を共有したいと望まずにはいられない。男は言うだろう。

I will follow you into the dark.

かつてランボーは、谷間に横たわる名もなき兵士の銃痕(=穴)からカメラ・アイを引き下げることで、兵士の身体を言葉のみで表現した。この映像のベクトルは一見逆に思えるが、男が穴に近づいていけばいくほど、視点はそれを客体化し、穴の内側―それは常に外側でもありうる―から彼を傍観する。穴に埋没していく男は当然のように穴に縋り、やがて闇に呑まれていくだろう。穴を塞ぐすべを知らないから。

それでも忘れてほしくないのは、ファースト・カットとファイナル・カットに、窓の外からの声が挿入されていることである。小部屋の外には光が溢れ、子供たちの声が絶え間なく響いている。果たして僕らはそれを聴き取ることができるだろうか。


※1:Death cab for cutieは、シアトル出身の若手ロック・バンド。良質なポップ・ミュージックを量産し続けている。彼らのBody meets Soulという曲のPVも一見の価値あり。

※2:監督はRadio head,Cold Play等、UKのロック・バンドを中心にPVを製作している、鬼才Jamie Thraves。

※3:本文は歌詞の内容とは殆ど関係ありません。管理人の極めて個人的な随想です。歌詞を知りたい方はmore...をクリックしてください。

→PV視聴

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