言葉だけでいいから、僕のこと、信じてくれないか。
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以下は、11月10付、毎日新聞からの引用。

パレスチナ:イスラエル軍殺害の少年の臓器、イスラエルへ

 イスラエル軍に殺された12歳のパレスチナ人少年。その臓器が、6人のイスラエル人に移植された。報復が報復を呼ぶ「憎悪の連鎖」は断ち切れるのか。家族の真意と少年の死の真相を追って、戦闘が続くヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ジェニンに入った。【ジェニン樋口直樹】
 武装勢力の拠点であるジェニンは、絶えずイスラエル軍の攻撃にさらされてきた。02年4月には50人以上の住民が殺害され、数百軒の家屋が破壊された。がれきの山と化した難民キャンプの一角で、イスマイル・ハティブさん(39)一家は暮らしていた。
 3日午前10時半ごろ、三男アハマド君(12)は、自宅近くの路上でイスラエル軍に銃撃された。イスラエル北部ハイファの病院へ運ばれたが、5日に死亡した。「父親からもらった小遣いを握りしめて家を出た。絵を描くのが好きな、やさしい子だった」。母アブラさん(34)は、声を震わせた。
 脳死状態に陥った段階で、イスマイルさんは臓器提供を決断する。「兄は肝臓の移植手術を受けられずに死んだ。肝臓の提供者がいれば死なずにすんだ」との思いがあった。「アラブ人でもユダヤ人でも、息子の体の一部が役立てばいい」と申し出る。心臓や肝臓などが6人に提供された。全員がイスラエル人。「たまたまだ」と、移植コーディネーターは言う。
 移植のニュースはイスラエルの新聞やテレビで大々的に報じられる。パレスチナ人の臓器がイスラエル人に移植された例は過去にもあったが、子どもを殺された家族が相手方に提供するケースは「聞いたことがない」(病院関係者)からだ。だが、美談の陰に少年の死の真相は隠されていた。
   
 軍当局は「部隊が銃撃され、約130メートル先の武装した男に発砲した。その場で見つかった銃は、プラスチック製の(おもちゃの)銃だった」と発表。遺憾の意を表しながらも「兵士らの行動は正当だった」と主張した。
 疑問が残った私は、目撃者を訪ね歩いた。
 「塀の外へ出るな」。激しい銃声に、自宅の窓から外を見た警察官のハバイバさん(27)は、目の前の塀の内側で遊んでいたアハマド君と友だちの2人に、大声を張り上げたという。塀の外では、パレスチナ武装勢力とイスラエル兵士が銃火を交えていた。
 銃声が途切れ、アハマド君が塀の外へ出た時だった。銃弾が右側頭部を貫いた。助けようとした住民にも銃撃が浴びせられ、さらに1発がアハマド君の足に命中した。
 「あの子はおもちゃの銃を持っていなかった。持っていたのは塀の内側にいた友だちだ」と、ハバイバさんは証言する。現場が戦闘状態にあったことも、おもちゃの銃があったことも事実だが、「武装した男に発砲した」という軍の主張は極めて疑わしい。
 パレスチナでは、イスラエル側に殺された人のポスターを「殉教者」として作り、街に張り出す。殉教者らしく、子どもでも銃を構えた姿が一般的だ。でも、イスマイルさんらが作ったアハマド君を悼むポスターは違う。
 「パレスチナの子どもたちはなぜ殺されるのか」。ポスターには、大きな「?」とともに、こう書かれていた。
 「うちの子は銃を持っていなかった」。イスマイルさんは息子の死について、これしか語らない。一方で臓器移植については「平和の実現を望む我々のシグナルだと思ってほしい」と、泣き腫らした目に力を込めた。
 臓器移植の善意は伝わるか。死んだ息子は喜んでくれるだろうか--。ポスターをじっと見るイスマイルさんに、理想と現実との相克に苦しむ父親の姿を見た。
(毎日新聞 2005年11月10日 13時29分 (最終更新時間 11月10日 13時34分)
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 少年はいつも一人で遊んでいる。キャッチボールの相手はいつも案山子。そんなある日、少年は向日葵畑で怪我をしたカラス/男を発見。少年はそっと箱に入れて家に持って帰り、母親に尋ねる。
 
 「ねえ、お母さん、家で飼ってもいい?」

 当然受け入れられるはずもない。その後少年は暫しの間、カラス/男と戯れる。念願の、キャッチボール。だが、カラス/男は突然動かなくなってしまうのだった・・・
 一見明瞭なストーリーがあるようでいて、曖昧な作りになっているのが面白い。それは、カメラがあくまで子供の眼差しだからだ。(バンドのメンバーが現れるのはご愛敬だけれども。)ひょっとして、カラス/男は父親ではないのだろうか?そんな想像力をかき立てられてしまうPV。

 Modest Mouseはアメリカらしからぬアメリカのユニークなギター・ポップ・バンド。日本ではまだあまり紹介されていないようだ。

 ふと、遠い夏の日を思い出す。子供時代に向日葵畑なんて見たことがないはずなのに。




→"Ocean Breathes Salty"video※ページ一番左上のvideoです。

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 6月27日の朝は、晴れ渡った空の下、さわやかな夏の日だった。午前10時近くになると、村人たちが広場に集まり始める。この村には毎年この日に「くじびき」をする慣習があった。この「くじびき」は今年で77年目であり、村の最長老のワーナー爺さんでさえ、その起源を知らないほど古くからある慣習であるらしい。くじはまずそれぞれの家族の代表が引く。その後、当たりを引いた家のものがもう一度引いて当選者を決めることになっている。
 さて、進行役のサマーズ氏の音頭で行事が始まった。ハッチンスン、ダンバー、ワトスン…。次々にくじを引いていく。結果、今年の当たりくじを引いたのはハッチンスン家だった。そのため、主のビルと妻のテシー、そして子供のビル・ジュニア、ナンシー、デーヴの5人が2回目のくじを引く。果たして当たりくじは誰が引いたのか。それは妻のテシーだった。テシーは狼狽して言う。

 こんなの公平じゃないわ。正しくないわ。/It isn’t fair, it isn't right.

 テシーはくじの無効を訴えるが、誰にも聞き入れられない。村人たちは一斉に手に石を持ち、彼女に躙り寄る・・・

 Shirley Jackson (1916-1965)『くじ』(THE LOTTERY )は、アメリカでは非常にポピュラーな短編のひとつ。1948年、雑誌「ニューヨーカー」に『くじ』が掲載された当初、「これ以上『ニューヨーカー』を講読したくない」という何百通もの手紙が編集部に届いた、というエピソードがあるほどの問題作となった。時代は第2次大戦の直後、人々の反響は想像に難くない。
 この作品の怖さは、日常性に潜む暴力であり、その残酷な慣習があまりにも当たり前の日常風景として定着していることにある。のどかな村の情景、何気ない家族間のやりとりから、物語は一気に悪夢へと疾走するのだ。何故彼女は殺されなければならなかったのだろうか。ワーナー爺さんと村人たちの会話から、「くじ」が共同体を維持するために欠かせないシステムであることが暗示される。だが、それが何故なのか、説明は一切無いのである。当の村人たちでさえ、疑問に思っている節はない。そのことが僕らの恐怖を増幅させる。この村は果たして僕らの住む世界とは全く異質の物語世界に過ぎないのだろうか?くじ引きの様子は、某国の選挙の様と似てはいないだろうか?「私はただ物語を書いただけ」とシャーリーは言うのだが。

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「失う」とはどういうことだろうか?
僕らは何かを得た代償として何かを失うのだろうか?
あるいは「失う」とは、それ自体で何者にも換え難い「何か」なのだろうか?

 Elizabeth Bishop(1911-1979)という女性は「失う」という概念に真剣に向き合った詩人だった。

ものを失くす技術を覚えるのは、難しくない。/The art of losing isn't hard to master.

僕らはいろんなものを失う。そして全ては「過去」へと帰される。にもかかわらず、僕らは「過去」に囚われており、そこから逃げ出せずにいる。愛する人を失った悲しみは何ものにも換え難い。にも関わらず彼女は、I shan't have lied.(ものを失うことはやさしいという私の言葉は、「嘘」にならないだろう)と嘯く。詩人は耐えているのだろうか?

 この詩は、villanelleと呼ばれる17世紀フランスの複雑な詩型で語られる。脚韻は2種類のみ、第一連の第一行と第三行全体の変形が、かわるがわる各連の最終行で繰り返され、第6連ではその両方が現れる。是非、朗読を聴いてその音の美しさを体感していただきたい。

→詩の朗読ビデオを見る

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One Art

The art of losing isn't hard to master;
so many things seem filled with the intent
to be lost that their loss is no disaster.

Lose something every day. Accept the fluster
of lost door keys, the hour badly spent.
The art of losing isn't hard to master.

Then practice losing farther, losing faster:
places, and names, and where it was you meant
to travel. None of these will bring disaster.

I lost my mother's watch. And look! my last, or
next-to-last, of three loved houses went.
The art of losing isn't hard to master.

I lost two cities, lovely ones. And, vaster,
some realms I owned, two rivers, a continent.
I miss them, but it wasn't a disaster.

---Even losing you (the joking voice, a gesture
I love) I shan't have lied. It's evident
the art of losing's not too hard to master
though it may look like (Write it!) like disaster.





 ビョークといえば、どうしてもトリッキーな面ばかりが強調されるけれど、彼女ほどアートとポップ・ミュージックの橋渡し的なアーティストはいないだろう。

 このPVは、2000年のMTVアワードの特殊効果部門で賞を獲得した。かれこれ5年前の作品だが、そのユニークさ、斬新さは決して失われていない。PVは曲の価値と分けて評価されるべきだと思うけれど、この作品に関しては、音楽と映像の融合が見事成し遂げれている。

未来のKISS。


サイボーグのキス。僕らの中で蠢く深い感動と言いしれぬ不安の混淆。ロボットとは何か、という僕らの問いは、とりもなおさず、人間とは何かという問いと同義であるように思われる。(SFが好きな人は、サイボーグとロボットの違いを気にするかもしれない。)

ちなみにこの曲は、先日のLIVE8でも歌われたらしい。アートと商業音楽の狭間で揺らめく彼女の音楽は、これからも躍進を続けるだろうか。

→PVはこちら※画像下のplay broadband movieをクリックしてください。

ALL IS FULL OF LOVE Lyrics

You'll be given love
You'll be taken care of
You'll be given love
You have to trust it

Maybe not from the sources
You have poured yours
Maybe not from the directions
You are staring at

Twist your head around
It's all around you
All is full of love
All around you

All is full of love
You just aint receiving
All is full of love
Your phone is off the hook
All is full of love
Your doors are all shut
All is full of love!
** Icelandic part **
All is full of love, all is full of love
All is full of love, all is full of love ...

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 JoyceのDubliners(『ダブリン市民』)を読んでいたら、The deadという短編の中に、「dumbbell」という単語が目に止まった。ふむ、ダンベル・・・念のため辞書を引くと、亜鈴という日本語が出てきた。亜鈴・・・亜→唖と考えれば、「押し黙った鐘」・・・どういうことだ?

で、調べてみた。Wikipedia(日本語版)によると、


 「ダン」は英語でdumb、「黙った」という意味。また「ベル」はbellで、教会の釣り鐘を意味する。字義どおりだと「黙ったベル」となるが、中世の騎士の時代に、文字通り「音を立てないベル」を持ち上げてトレーニングをしていた歴史の名残がある言葉である。日本語の「唖鈴(あれい)」は、dumbbellを直訳した語である。なお、「唖(おし:口が利けないさまを指す語)」の字は常用漢字に入っておらず、また差別用語とみなされることから、代用漢字「亜」を用いて「亜鈴」、または片仮名で「アレイ」と表記される傾向にある。パソコンの変換ソフトでも、「唖鈴」の語は登録されていないことが多い。


 なるほど。日本語の漢字は当て字だったのか。それにしても、中世の騎士と教会の鐘とはこれ如何に?で、英語版も覗いてみた。

Dumbbells, as a word originated in Tudor England―th e devices used for ringing church bells were widely k nown for their impact on increasing muscle size, crea ting a trend in the 16th Century which saw rich youn g men installing similar devices in their homes, cons isting of a pulley with a weighted rope which the use r pulled as though they were ringing a church bell. T hese were known as "bells", but as there were no actu al bells on the end of the pulling ropes and were sil ent, they came to be known colloquially as "dumb-bell s". Over the centuries, the pulley and weighted rope  fell out of fashion, leaving just the weight. By the  early 19th Century, the familiar shape of the dumbbel l, with two equal weights attached to a handle, had appeared.

(訳:ダンベルという言葉の語源はイギリスのチューダー王朝にあった。― 鳴り響く教会の鐘を用いたその装置は筋肉量を増強する効果のために広く知られており、裕福な若い男たちが自分たちの家に類似した装置を取り付けるという16世紀の流行を創り出した。その装置は重りをつけたロープをつけた滑車からなり、使用者はまるで教会の鐘を鳴らすかのようにロープを引っ張ったのだ。この装置は、「ベル(鐘)」として知られているが、引っ張るロープの端に取り付けられているのは実際の鐘ではなく、音がしなかったので、その装置は話し言葉で「ダンベル(黙った鐘)」として知られるようになった。数百年の間に、その滑車と重りのついたロープは流行ではなくなり、重りだけが残った。19世紀初頭には、二つの等しい重りが一つの取っ手に取り付けられている、類似した形のダンベルが出現したのだった。)

 なるほど。

 ちなみに現代のダンベルには2種類あるらしいが、ここでは割愛する。詳しく知りたい方はwikipediaを参照されたい。リンク先をたどれば、ダンベルと肉体改造についての浩瀚な?情報が得られるかもしれない。

ダンベルにも歴史があった。

 というわけで、それなりの理解は得られたわけだが、今更かもしれないが、インターネットでこれだけの情報が手軽に得られるのは凄いことだ。インターネットとOEDさえあれば、相当面白いことができるような気がしてくる。先日とある文学研究のシンポジウムに行ったのだが、引用がすべてインターネットという驚愕の文化研究があった。最近の文化表象論の研究はインターネットをフル活用して行なわれるという。そういう研究では膨大な量の情報(データ)を如何に捌くか、その力量が問われることになる。音楽でいったら、たくみにサンプリング音源を駆使するDJといったところか。でも残念ながら、僕は「ダンベルの研究」に没頭できるほど暇じゃないし、ここから話を広げてテクストに何かを読み込めるほど賢くもない。今日の記事は雑学特集、トリビアみたいなもの。結局、僕は再びテクストに戻っていくのだ。

※訳は管理人によるやっつけ仕事、意訳です。ご注意ください。

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