言葉だけでいいから、僕のこと、信じてくれないか。
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作家エウドロ・アセベドは雨の中、平原の道を歩いていく。雨宿りをする家を探しているのだ。やがて、彼は一軒の家を訪れる。そこで彼を待っていたのは、未来世界の住人だった・・・。アセベドは未来人に過去の在り様を説明しようとする。

「私の過去では」と私は答えた。「毎日夕方から朝にかけて事件が起こり、それを知らないのは恥である、という迷信がはびこっていました。・・・印刷された文字や映像のほうが、事物よりも現実的だった。公のものだけが真実だった。Esse est percipi.(存在することは模写されることである。)」(ボルヘス『疲れた男のユートピア』pp.70-71)

エウドロは「過去」を相対化しようとする。そこにあるのは、シュミラークルな世界、コピーの世界が真実となった世界を生きる僕たちの姿だ。エウドロの話を聞きながら、未来人は自らが生きる「未来」を次のように語る。

「百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな厄災や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己の生のあるじならば、死についても同じである」
「それはどこからの引用ですか?」と私は訊いた。
「その通り。もはやわれわれには引用しか残されていません。言語は引用のシステムなのです」(同書p.73)

言語が限りない引用によって構築されているとするならば、世界そのものが引用の織物=テクストを為していることは明らかであろう。知の巨人ボルヘスが示した未来のユートピアは、社会主義的ユートピアの純粋性の極地であった。彼らは過去を忘却し、神無き世界、「言語の牢獄」を生きている。彼らは自らの意思で死を選ぶのだと言う。

「焼却場ですよ」と誰かが言った。「内部には死のガス室があります。グスタフ・アドルフ・ヒトラーとかいう名前の、博愛主義者が発明したものだそうです」(同書p.77)

ユートピアには空虚しかない。ボルヘスは予め、エピグラフによってそれを示したはずであった。

「そのような場所はない」を意味するギリシア語で、ユートピアと彼はそれを呼んだ。(ケベート)

だが、我々の「過去」と「現在」こそが「未来」の萌芽を孕んでいることを、ボルヘスは黙示的に語っている。ユートピアのイマージュは決して存在しない絵空事ではない。それは我々の内にこそあるのだ。

メヒコ街の書斎に、私はキャンパスを置いている。何千年もの後、今はこの星のあちらこちらにちらばっている素材をかき集めて、ある人間が、このキャンパスに絵を描くことになる。(同書p.77)

これから何を描くべきか僕らは知らないし、何故それを描くのか僕らは究極的に知ることができない。さて、あなたならどんなユートピアを描くだろうか?

※ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges、1899 - 1986)は、アルゼンチン ブエノスアイレス生まれの小説家、詩人。代表作は『伝奇集』、『幻獣辞典』など。本稿の引用は『バラケルススの薔薇』(国書刊行会)に拠る。


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「・・・ある評者は、この一編は人間性の暗黒面を寫したものだと云つた。鰐は蛸を愛してゐるくせにどうしても誘惑に勝てず、自己弁護を繰り返しながら、毎夜ひそかにその足を一本づつ食つて、遂には頭まで食ひつくしてしまふ。食ひ終わればにがい後悔の涙を流す。事ごとに自問自答し、無い性癖と自己弁護癖のあるその性格は近代のインテリに酷似していると評した。これに反してトンカチざめは、悪い事をするのが、ただもう嬉しくてたまらぬ。船を沈めて人が溺れるのを見天真爛漫に喜笑ひする。彼には訳にも立たぬ反省や自己弁護が微塵もない。即ち「絶対の悪」だから愉快だ。また単にゆでだこのやうに赤くなったに過ぎない鰐を、生神様に祭りあげる黒んぼを描いたのは、事大主義を諷刺するためだとも評した。」

「はしがき」でこのように紹介する山本が、この手の評を本気で信じていたとは到底思えない。ナンセンスに耽溺することを読者に推奨する山本は「読者の一人一人が己の甲羅に似せたさまざまな解釈を与え、しかもそれに耐え得るところにこの作品の無限の妙味と含蓄」があるのだと紹介するが、これほどシュールな寓話に「さまざまな解釈」を施すこと自体、至難の業である。

『年を歴た鰐の話』は、ナイル川に住んでいた一匹の年老いた鰐の物語。リウマチになり動けなくなった老鰐は、空腹に耐えられず曾孫の鰐を食べたことで親族中から総スカンを食らう。曾孫の母鰐に「ひとでなし!」と叱責されるものの、老鰐は全く反省の素振りを見せない。居場所を失った老鰐は海へと旅立つ。海で一匹の蛸と出会った朗鰐は、彼女(話しぶりからするとメスであるらしい)にエサをとってもらうばかりか、彼女と相思相愛になるが、そこはやはり鰐の性、毎日一本ずつ蛸の足を食べ、最後にはまるごと喰らってしまうのだった。海ですっかり英気を取り戻し、再び故郷の上流へと戻ったものの、仲間たちは皆一様によそよそしい。悲嘆に暮れた老鰐はさらに上流を目指す。上流の岸辺で力尽きた老鰐は野蛮人たちに捕獲されてしまうが、どういうわけか手厚く待遇され、神のように奉られる。というのも、長いこと紅海にいた老鰐は身体が真っ赤に変色していたからだ。老鰐はそのことに気づかぬまま余生を過ごしたのだった・・・。

「彼は彼女を食べてしまつたことを後悔したが、彼女が、大そうおいしかつたことを思ひだして、唯一の慰めにした。」などと言われて素直に笑っていいのか困ってしまうが、笑っておくほかないカニバルな挿話である。ラストのオチが凡庸だとしても、神話の起源とはこんなものではないかと思わせてしまうのがジョヴォの手練。川を上るといえば、コンラッドの『闇の奥』を連想させるが、コンゴ川上流で現地人に神扱いされて発狂したクルツとは明らかに違って、老鰐は平和に最期を迎えるのが印象的だ。毒を吐き続けた後に回ってくるハッピー・エンドに輪をかけるのはジョボの絵で、哀愁漂う鰐の背中を描いている。

本書には他に『のこぎり鮫とトンカチざめ』、『なめくじ犬と天文学者』という短編二つが収められているが、どちらも『年を歴た鰐』に劣らぬシュールな寓話。『のこぎり鮫とトンカチざめ』は、ルノウ君の父親なる人物が、ルノウ君にせがまれ、その場のノリででっちあげた物語。(したがって、ルノウ君の「つっこみ」によってストーリーは容易く修正される。)極悪な鮫が船を沈めまくる様子が執拗に描かれるが、最期にはかつて殺した鯨の母親に復讐され、二匹は鯨の尾びれで「平べつたく」されるという惨めな死を遂げる。あっけない終焉。この寓話に一体如何なる救いがあるのか、と問う奇特な御仁もあるかもしれない。こんな話の一体何が面白いというのか?どうしても答えが欲しい方は、ルノウ君と父親の会話を改めて読み、多少の慰めにしていただければと思う。

「わかつたかい。」
「うん。」
「本當にわかつたかい。」
「ううん。本當はわからないけれど、それでも面白い。」
「わからないのだから、これ以上話しても無駄だな。」
「無駄ぢゃない。面白いんだから。」
「わからないくせに、どうして面白いんだらう。」
「どうしてだか知らない。でも、面白いつたら面白いんだから。」
「ぢゃ話そう」


笑いは説明すると野暮になるという好例かもしれない。

『なめくじ犬と天文学者』は、天文学者ラリュンヌと彼を取り巻く動物たちの物語。ラリュンヌは流星と地球が衝突することを危惧する天才天文学者だが、盲目であるためにチョコレートという名の愛犬に望遠鏡を覗かせて、星を観察している。さらに、星の位置を計算させるため”なめくぢ”という名の計算ができる犬、さらに計算ができるというカエルのピタゴラスに計算を依頼する。ちなみに、ピタゴラスはサーカスの首なし女に飼われているカエルである。ところが、実際、なめくぢは計算ができず、ピタゴラスも計算できないことが発覚。すると、チョコレートも望遠鏡を覗くことができないことを告白し、挙句、ラリュンヌまでが星のことはわからないと言い放ったものだから、話は滅茶苦茶になるかと思いきや、何故か一同は和解、クビなし女と天文学者は結婚、みんなで仲良く暮らすことになるのだった。めでたし、めでたし。

互いの無知を曝け出すことで愛が芽生える寓話だと解すれば合点はいくが、物語としては明らかに破綻している。だが、その破れ/敗れにこそ、実は魅力があるように思えてくる。計算ができないことも計算のうち?なのかもしれない。それにしても、首なし女との結婚はあまりに唐突過ぎはしないか?そんな勘ぐりも無粋に思えてくる不可思議な話。

いずれの物語もブラック・ユーモアに満ちた酔狂な寓話であるにも関わらず、背後に人間臭い温もりがあるから愉快である。憎みきれぬ魅力と言ったら軽薄か。いずれにせよ、どうやらジョボの毒には愛が満ちているらしいのだ。その毒は回りきってから効いてくるのである。

ジョボが今も尚無名であることを鑑みると、レオポール・ジョヴォとは架空の名で、山本夏彦氏がこれを書いたのではあるまいか、と吉行淳之介が訝ったのも無理からぬことだと思える。それほどに、山本の訳文には独自のリズムがあって心地良い。旧仮名遣いではあるが、山本訳を薦めたい所以である。絵も口舌尽くしがたいユーモアたっぷり、ナンセンスに耽溺したい方にお勧めの良書。

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僕らは鏡を覗き込み、自らの姿を直裁に理解する。僕が僕であること。あなたがあなたであること。だが、それは思い込みに過ぎない。僕/あなたは決して自分自身を識ることはできない。自らの身体の存在をうまく呑み込めず、僕らは、食べ、飲み、排泄し、性交し、時に煙草を吸い、時に身体に穴を開けてまで自らの身体を知ろうと躍起になる。その実、僕らは何も知らないのだ。

鏡に映る姿を誤認することによって、人間は自らを構成するのだとジャック・ラカンは考えた。弛まぬ誤認による想像・・・やがて、僕らは言語を獲得し、象徴界に身を委ねることになる。だが、鏡に立ち会った瞬間、僕らは再び出会うだろう。

A terrible fish./おぞましい魚。

「鏡」とは、まぎれもなく他者のことであるが、そこには常に「死」がつき纏っている。僕らは「死」に突き動かされながら、鏡を覗き込む。あなたには何が見えるだろうか?

Sylvia Plath(1932 – 1963)は二月のある日、オーブンに首を突っ込んで死んだ。彼女ほど「鏡」を直視し続けた詩人は稀だ。Sylviaは自らの詩の中に、自らの身体を書きこんだのである。


Mirror

I am silver and exact. I have no preconceptions.
What ever you see I swallow immediately
Just as it is, unmisted by love or dislike.
I am not cruel, only truthful---
The eye of a little god, four-cornered.
Most of the time I meditate on the opposite wall.
It is pink, with speckles. I have looked at it so long
I think it is a part of my heart. But it flickers.
Faces and darkness separate us over and over.

Now I am a lake. A woman bends over me,
Searching my reaches for what she really is.
Then she turns to those liars, the candles or the moon.
I see her back, and reflect it faithfully.
She rewards me with tears and an agitation of hands.
I am important to her. She comes and goes.
Each morning it is her face that replaces the darkness.
In me she has drowned a young girl, and in me an old woman
Rises toward her day after day, like a terrible fish.


わたしは銀色で正確。先入観はない。
あなたが見たものを 私は何でもすぐさま飲み込む
あるがままに、好き嫌いに曇らされることなく。
私は残酷ではない、真実であるだけで---
四面にある小さな神の目。
殆どいつも わたしは向かいがわの壁について黙想する。
その壁はピンクでしみがついている。ずいぶん長いこと見続けた
わたしの心臓の一部のようだと思う。でも それは揺らめく。
顔と暗闇はわたしたちを何度も何度も切り離す。

今わたしは湖。一人の女が私の上に身をかがめ、
本物の自分を求めてわたしの領域を探している。
それからあの嘘つきたちや、蝋燭や月に顔を向ける。
わたしは彼女の背を見て、それを忠実に映し出す。
彼女は涙と大仰な手振りで私に報いる。
わたしは彼女にとって重要なのだ。彼女は行ったり来たりする。
毎朝暗闇と交替するのは彼女の顔だ。
わたしのなかで、彼女は一人の若い女を溺死させた、そしてわたしの中で一人の老女が繰り返し自分の一日の方へと立ち上る、おぞましい魚のように。

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 村上春樹と言えば、『ノルウェイの森』や『ねじ巻き鳥クロニクル』、『海辺のカフカ」』といった長編小説のイメージが強いが、『辺境・近境』、『雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行』といった、旅行記もいくつか書いていることはあまり知られていないように思う。今回紹介する「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」もその手の作品の一つだ。正直に言うと、お世辞にも魅力的な文学作品とは言い難い。というのも、彼の旅行記は巷に溢れる演出に満ちた旅行記と比べると、あまりにも物語性に欠けるし、旅情に纏わる高揚感というものが稀薄である。故意に狙っている節もあるが、どちらかと言えば、苦手分野なのかもしれない。異国情緒溢れる旅の魅力や冒険譚を心から求める人は沢木耕太郎の「深夜特急」あたりを読んでいただいたほうがよいかと思う。それでもこの作品を取り上げるのは、物語を度返しにして人間の魅力を掬い上げる、そのエクリチュール、一重に文章の巧さでもっていく瞬間に、僕らが‘酔いしれる’からにほかならない。
 本書は、主に二つの旅行記からなる。一つはスコットランドのアイラ島を巡る旅であり、もう一つはアイルランドを巡る旅。目的は勿論、ウィスキーを飲むことにある。さながらヘミングウェイのように、飲んで飲んで飲みまくる。(それをオシャレに見せるところが心憎い村上節で、7つのシングルモルト・ウィスキーをテイスティングするその至福に僕らの入り込むスキはない。)当然、本書はウィスキーに纏わる蘊蓄と観光案内的語りが大半を占めるのだが、その雰囲気を下支えするのは、そこに登場する人間の「ことば」だ。アイラ島では二人のウィスキー職人が登場する。一人は昔ながらの製法でウイスキーを作り続けている、ボウモア蒸留場のマネジャー、ジム、もう一人は近代的な生産システムを取り入れたラフロイグ蒸留所のマネージャー、イアンである。
 ジムはウィスキー造りの魅力を次のように語る。

「ウィスキー造りを僕が好きなのは、それが本質的にロマンチックな仕事だからだ」とジムは言う。「僕が今こうして作っているウィスキーが世の中に出て行くとき、あるいは僕はもうこの世にいないかもしれない。しかし、それは僕が造ったものなんだ。そういうのって素敵なことだと思わないか?」

 ジムのことばは芸術家のものと何一つ変わらない。そこには永遠性を希求する精神がある。一方、イアンは次のように語る。

・・・頭でいろいろ考えちゃいけない。能書きもいらない。値段も関係ない。多くの人は年数の多いシングル・モルトはうまいと思いがちだ。でもそんなことはない。年月が得るものもあり、年月が失うものもある。エヴァレーション(蒸発)が加えるものもあり、引くもものもある。それはただ個性にすぎない。

 イアンのことばには、物作りの本質を突く哲学がある。二人の職人はそれぞれ異なる製造法によって、全く違う味のウィスキーを造っているにも関わらず、間違いなく一本筋の通ったもの持ち合わせているのだろう。
 こうして僕らは、まんまと飲んだこともないウィスキーの味について一つの真理を得たような気になる。ウィスキーに必要なのは、美味しい水、上質の大麦、ピート、そして、人間であると。
 一方、アイルランドの旅では、職人の姿は殆ど描かれることがない。この章のタイトルは「タラモア・デューはロスクレアのパブで、その老人によってどのように飲まれていたか?」であり、飲む側の人間に焦点があてられている。ここで、村上は執拗に老人がウィスキー飲む姿を描く。残念ながらその魅力はここで紹介しきれるものではない。おそらく、決して誰しもがわかる光景ではないだろう。だが、村上はこの老人がパブの椅子に腰掛け、タラモア・デューを飲みながら「形而上学的な、あるいは反プラクティカルな」思考を続けるその佇まいに魅せられている。その奇妙な光景を形容する言葉が無く、戸惑っているような感じさえある。僕らはいつもそういった感覚や認識を、何にも置き換えることができずに、何気なく素通りしていく。ことばはそれを捉えることができるだろうか?
前書き(「前書きのようなもの」と付されている)で、村上は次のように言う。
 
 もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけで済んだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし、残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも、例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは―少なくても僕はということだけれど―いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。

 シニフィアンの海で溺れずに岸まで上がってこようとする刹那、僕らは唐突に足を掬われてしまいそうになる。僕らは水面下で藻掻き続け、「その瞬間」を夢見るのかもしれない。テクストの快楽。それは危険な「賭け」だ。シェイクスピアから現代作家に至るまでの芸術家のメンタリティが、ここにはある。

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 6月27日の朝は、晴れ渡った空の下、さわやかな夏の日だった。午前10時近くになると、村人たちが広場に集まり始める。この村には毎年この日に「くじびき」をする慣習があった。この「くじびき」は今年で77年目であり、村の最長老のワーナー爺さんでさえ、その起源を知らないほど古くからある慣習であるらしい。くじはまずそれぞれの家族の代表が引く。その後、当たりを引いた家のものがもう一度引いて当選者を決めることになっている。
 さて、進行役のサマーズ氏の音頭で行事が始まった。ハッチンスン、ダンバー、ワトスン…。次々にくじを引いていく。結果、今年の当たりくじを引いたのはハッチンスン家だった。そのため、主のビルと妻のテシー、そして子供のビル・ジュニア、ナンシー、デーヴの5人が2回目のくじを引く。果たして当たりくじは誰が引いたのか。それは妻のテシーだった。テシーは狼狽して言う。

 こんなの公平じゃないわ。正しくないわ。/It isn’t fair, it isn't right.

 テシーはくじの無効を訴えるが、誰にも聞き入れられない。村人たちは一斉に手に石を持ち、彼女に躙り寄る・・・

 Shirley Jackson (1916-1965)『くじ』(THE LOTTERY )は、アメリカでは非常にポピュラーな短編のひとつ。1948年、雑誌「ニューヨーカー」に『くじ』が掲載された当初、「これ以上『ニューヨーカー』を講読したくない」という何百通もの手紙が編集部に届いた、というエピソードがあるほどの問題作となった。時代は第2次大戦の直後、人々の反響は想像に難くない。
 この作品の怖さは、日常性に潜む暴力であり、その残酷な慣習があまりにも当たり前の日常風景として定着していることにある。のどかな村の情景、何気ない家族間のやりとりから、物語は一気に悪夢へと疾走するのだ。何故彼女は殺されなければならなかったのだろうか。ワーナー爺さんと村人たちの会話から、「くじ」が共同体を維持するために欠かせないシステムであることが暗示される。だが、それが何故なのか、説明は一切無いのである。当の村人たちでさえ、疑問に思っている節はない。そのことが僕らの恐怖を増幅させる。この村は果たして僕らの住む世界とは全く異質の物語世界に過ぎないのだろうか?くじ引きの様子は、某国の選挙の様と似てはいないだろうか?「私はただ物語を書いただけ」とシャーリーは言うのだが。

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